霞月忌
香道御家流第22代 山本 霞月 宗匠 43回忌法要
於 霞会館
4月13日土曜日
献香式
一席、午後1開始

御仏前
御門跡 瑞龍寺 伏見宮 日栄尊尼 御直筆御本尊
天目 竹田宮家御下賜 一対
稚児御所 人形
大導師 日向 興福山 妙国寺 黒木報源 上人
(興統法縁、小西法縁)

開式の辞

献香 銘 五葉の松 (第24代 北小路 成子命名)
献香 御奉仕 第25代 長濱 閑雪
及び
祈願文(讃歎文)奏上
霞会館御仏前の御前にて、第24代北小路成子宗匠命名の五葉松を供香して、
香道御家流第22代山本霞月宗匠の四十三回忌の追善供養菩提を願い,御先師の恩恵に感謝申し上げて、
門弟一同、伝統文化継承のため稽古に励み、香の道の精神を高めて、
精進していくことを誓願し、慎しみて、慎みて申す。
平成二十五年卯月中三日 香道御家流 第二十五代 長濱 閑雪 花押

献茶 石川 閑月

献水 片桐 恵子

献花 彦久保

献菓 多 有実子様
特別顧問 宮内庁式部職楽家

挨拶 石川 閑月
山本霞月宗匠は、昭和の香人のまさに中心的存在であり、戦後、香道御家流の復興を
成し遂げられた方でいらっしゃいます。
霞月宗匠は、和歌山県のご出身で、大変な素封家に生まれました。昭和の初めころ、増田秀月に入門し、
お香の道に入られます。
しかし、やがて時代は日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、次第に優雅にお香道を楽しむご時世ではなくなり、お稽古もなくなりました。昭和20年に終戦を迎えましても、
人々はお香どころではありませんでした。
霞月宗匠は、私的にもご家族を次々と亡くされ、ついに唯一残されたご子息までもが他界され、
生きる希望をすっかりなくされました。
そのような中、これまた昭和の大香人である一色梨卿より、「ご子息の菩提のために世に残ることを」との励ましを頂き、御家流香道の復興を決意されたのでした。御家流の家元は、明治の中頃に細谷松茂で絶えて久しく、御家流に再び家元をおしいただくという、大変な事業に象徴されました。霞月宗匠は、
終戦直後の万事が不自由な時代に、惜しげもなく私財を投じられ、始祖三条西実隆につながる三条西堯山氏に白羽の矢を立てられ、家元への推戴を成し遂げられたのでした。
それから数年後、霞月宗匠はご体調の問題その他いろいろ思われるところがあって
お稽古場を閉じられました。昭和41年、三条西堯山家元推戴二十周年を期にお香との訣別を表明、翌42年、山本霞月香道四十周年記念の御香会を催されて、お香を引退されたのでした。
三条西堯山氏はいうはさらなり、美智子皇后陛下のご生母正田富美子さま、ホテルオークラ創業者夫人の
大倉久美子さま、そして当霽月会名誉顧問・北小路成子先生など、蒼々たる方々が霞月宗匠に師事されました五反田の池田山にございます現在の薬師寺別院は、霞月宗匠が贅を尽くして建てられたお邸であり、
引退にあたり薬師寺に寄進されたものでございます。
引退の御香会から4年後の昭和46年2月、その激動の生涯を閉じられました。
平成25年は、霞月宗匠没後42年、43回忌ということになります。
霞月宗匠をモデルにしたといわれている小説に、宮尾登美子の『伽羅の香』がございますが、
霽月会代表・長濱閑雪宗匠も私・石川閑月も、山本霞月の名が、このような偉大な功績にもかかわらず、
案外世間に知られていないのをつねづね残念なことに感じておりました。今日の香道御家流は、
山本霞月なくしてあり得ません。そこで、昭和の大香人・山本霞月の功績を讃えて、その名を広く
皆様に記憶していただくため、霞会館におきまして霞月忌香会を催すに至った次第でございます。
一席、午後2時開始(直門対象)
(銘香鑑賞会)
一席、午後4時開始(中級、上級)
霞月香
(霞月宗匠による創作組香)
